京都の山科に行く機会があり、少し足を延ばして「毘沙門堂」にお参りしてきました。
みなさまはご存じでしょうか。
毘沙門堂は山科駅から歩いて行けるところにあります。
道に咲き誇る花々を愛で、ちりめん山椒屋さんでお茶をいただき、写真を撮りながらの道中は楽しく、20分で着くはずのところを30分以上かかって、ようやく階段下に到着しました。
長い階段を登って到着した境内では、住職さんからお話を聞くことができ、2つのことを感じました。
ひとつめ
草冠(くさかんむり)に父・母と書いて何と読むか?
草冠に母と書いて「いちご」、草冠に父と書いて「もぐさ」でした。
先人の教えでしょうか。
母の愛は、酸っぱくても甘く。
父の愛は、熱くて厳しく。「もぐさ(お灸)」のように、ここぞというときに効くように。
いろいろな形の家庭があり、家庭内での役割は少し変化していますが、子どもに必要な愛の形は変わっていないのではないかと思いました。
以来、私は時に甘く、時に熱く。
“もぐさ人間”と”イチゴ人間”の両立を目指しています。
いや、両方を備えることが良いというものでもありませんが・・・。
ふたつめ
時間の感覚は正しすぎないかな?
ご祈祷で煤けた天井には、金色の尾が煤けた鳳凰が飛び回っていました。
毎日の祈りは深く、それは長い時間を物語ってくれました。
そして。
常香盤がありました。
みなさんはご覧になったことがありますか?
香時計とも言われ、お香の燃える時間で生活の時を刻んでいたものです。
4種類の線香を配置して、かおりの変化で時を知るというのです。
ゆるりと燃え尽きるお香。
穏やかに刻まれていく時間を、かおりで感じる。
来光に始まり、落陽で終わる毎日。
自然とともに時間は認知され、鐘の音で共通の流れとなります。
1月は行く。
2月は逃げる。
3月は去る、といわれるほど慌ただしい年度末。
慌ただしい時間に流されやすい毎日ですが、大切なものは時を経ても変わらず。
時間を活用するのではなく、分刻み、秒刻みの時間に追われていませんか?
去らせない3月。
身近な出会いから、身体とこころに必要なものを考えた一日となりました。
いま、あなたに必要なものはなんですか?
桜のころにまた行こうと思います。
それでは、今日もあなたのこころと身体に優しい一日となりますように。
研究員 前原なおみ